寛容の意味

2017/11/06

 今回は、寛容とは何かについて考えてみようと思います。そもそも人間は互いに異なるからこそ、認め合うことが可能になるのだと私は思います。もしも人々の価値観の画一化・同一化が進んでしまったら、人々は互いに寛容ではなくなってしまうのではないでしょうか。互いに似れば似るほど、互いの細かな違いが目立つようになります。不思議なことに、人間はこの細かな違いに対して寛容になることが出来ません。つまり人間は、一方の違い(大きな違い)は許容することが出来るのにもかかわらず、他方の違い(細かな違い)は許容することが出来ないのです。前者(大きな違い)は個性(興味深く新奇な対象)として捉えられ、他方で後者(細かな違い)は自分の価値観とは相容れない、異質なものとして捉えられるのです。ハイエク(Friedrich August von Hayek)は、自由という言葉を”freedom”と表すのではなく”tolerance"(寛容)と表しました。なぜ彼は、このように言ったのでしょうか。それは彼が、自由という言葉の意味は人と人との「相互関係」として捉えられなければならない、と考えていたからではないでしょうか。彼にとって自由とは、民主主義という制度によって保障されるようなものではありません。民主主義は方法であって、それは目的にはなりえないとする彼の議論は一貫しています。ハイエクの言説は、後世の人々によってかなり誤解・誤訳され歪められていると私は思います。彼の研究を理解するためには、彼が一貫して合理主義や理性主義を批判していたことを絶えず思い出さなければなりません。では何故、不寛容が生じるのでしょうか。不寛容は、どのような時に生じるのでしょうか。不寛容が生じる要因として、自分自身の価値観を確立していないこと、あるいは自分自身の価値観を大切にしていないということが挙げられるのではないかと私は思います。寛容とは、世界中の人間皆が仲良くなれば達成できるなどといった生ぬるいものではありません。全員が一斉に相手に道を譲ろうとすれば、その道を通ることは誰も出来なくなります。まず第一に、人間全員が仲良くなるなどといったことはあり得ません。寛容は見かけだけのやさしさではなく、「本当のやさしさ」でなければならないからです。「本当のやさしさ」は、浅はかな感情論で説明することの出来るものではありません。自分の価値観を絶対に守るという断固たる姿勢が存在しなければ、寛容の気持ちはとても生まれません。具体例を挙げるとすると例えば、移民の受け入れに肯定的な人々の意見を聞いていると、そこには感情論は存在するが肝心の寛容の心が欠けていることに気が付きます。彼らは、移民を受け入れないと日本はこれからやっていけない、競争に乗り遅れるなどと言いますが、それこそ感情論に走った議論ではないでしょうか。彼らの意見は、中途半端な希望的観測と中途半端な現実論を引っ張り出してくることで現状論と規範論をごちゃ混ぜにして、自らのポリシーの無さを必死で覆い隠そうとしているように私には見えます。彼らは、①グローバルな労働環境を「望ましい」と思っているのか。(=規範論)それとも、②グローバルな時代・状況という現状の下で労働環境を変えることは必要であり致し方ないことだと捉えているのか。(=現状論)彼らほど、他人から批判されることを恐れている人たちはいないのではないでしょうか。他人からの批判を恐れるほど、真実からは遠ざかっていきます。現状論を述べて批判されたら規範論を持ち出し、反対に規範論を述べて批判されたら慌てて現状論を持ち出して自分の意見を正当化しようとする。このような生き方は端的に言えば、武士の生き方の正反対を走っています。彼らは、武士の教えに逆らって進んでいます。自身の価値観を確立しそれを常日頃実践し大切にしていれば、相手の一挙一動に慌てることはまずありません。本当のやさしさというものは、人が壁に突き当たり行き詰って大変な時に相手の胸ぐらを掴んで相手が戻るべき場所まで引っ張って連れて行くような行為のことを指すのです。それは、自分の行為を正当化したり自分を慰めるような生半可な行為ではありません。他人からの批判を物ともしない覚悟が必要なのです。私はまた、「平和」という言葉ほど信用できない言葉は存在しないと思います。なぜなら、その平和が一体誰(何)にとっての平和なのか、どのような条件の下でその平和が可能になるのか、といったことが示されない限り、真の平和はあり得ないと私は考えるからです。むしろ「平和」という抽象的で漠然とした言葉によって、個々が守るべき価値観や規範が曖昧にされてしまうのではないかという一種の危険を私は感じます。平和という言葉によって代表されるものは、一種の無責任さや事なかれ主義でもあります。何事もなく事が進んでほしいと感じる人々は、いつの時代にも数多く存在します。しかし、数多くの人間の営みの中で人間の手の入っていない物事は存在しません。人が出会うあらゆる事象に、人の手は入っているのです。いつも通る道にゴミが落ちていないのは何故でしょうか。いつも利用するトイレが綺麗なのは何故でしょうか。何故、私は日本人として生まれ日本に住むことが出来るのでしょうか。また農作物は、ひとりでには実りません。実際は、何事も起こっているのです。様々な人たちの並々ならぬ尽力のおかげで、私は今ここにいることが出来るのです。ここに至って、福沢諭吉の言葉の意味が明らかになります。自分自身が独立しなければ、全体の独立はありえない。金儲け主義や事なかれ主義を叩き潰すためには、決して自信を失ったり卑屈になったりしてはいけないのです。真の寛容は常に、”見えざる規範”(未だ制度化されない規範)を代表するものなのです。それは、計画化や設計中心主義とは一線を画します。寛容とは、最初から壮大な設計図を掲げ出来るだけそれに近づけていこうとすることではなく、実際の人間の営みに即した価値観を一人一人が大切に守っていくことによって成り立つものです。そしてそのようなものだからこそ、寛容の道に終わりはないのです。

 

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